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車椅子城郭評論家・アシトド松井
2022年暮れに、簡易電動車椅子を利用し単独で郡山城に登城、追手門・追手向櫓をへて「番屋カフェ」で食事をしたものの本丸(天守台を含む最後のエリア)には急な坂道でたどり着けなかった、という内容のブログを公開したところ、ご覧いただいた大和郡山歴史同好会の方から「郡山城天守台登城サポート2023春」という社会実験があるので申し込んでみないかとのお誘いをうけ、担当の大和郡山市まちづくり戦略課に問い合わせてみることにしました。
大和郡山市社会実験・郡山城天守台登城サポートの案内
ここからの記事をご理解いただくためには、2022年暮れの「車椅子で郡山城に登城」のブログを見ていただくといきさつがわかりますので、まだの方は下記のURLをクリックしてご覧いただければ幸いです。
https://ashitodo.hatenablog.com/entry/2022/12/19/183124
「体重80kgまで、電動車椅子不可」という参加条件があるということを、知らされていたので、大和郡山市の担当部署・まちづくり戦略課に電話連絡をしたところ、なにぶん初めての社会実験なので「電動車いす利用者が単独で電車に乗って参加する」ことは想定していなかったとのこと。
そこで
①大和郡山歴史同好会(市の有力団体と思われる)からご案内をうけていること。
②私は車椅子でのお城めぐりの第一人者と推定(法律用語で反証があれば覆るがそれまでは正当なことしてあつかう)されること。ブログ・ホームページも、見てもらいました。
③天守台に上がれなくても本丸までの坂道を押し上げてもらえれば、お城好きだから「逆さ地蔵」や再建された「極楽橋」をみせてもらえれば十分楽しめるので、集合場所まで行って危険と判断したことはお願いしない。
と説明をして、担当の方に集合場所の本丸(天守台を含む最後のエリア)までの急な坂道を押し上げてもらうことになり、再び郡山城を訪れることになりました。
近鉄郡山駅から郡山城本丸にむかいます
近鉄郡山駅からの車いすアクセス状況につきましては、2022年暮れの「車椅子で郡山城に登城」のブログをご覧下さいね。
柳沢神社の鳥居をぬけて、2022年暮れに上るのを諦めた本丸への坂道がみえます。ここで迎えに来て下さった、大和郡山市職員の方に電動車椅子の後ろに付いてもらい押し上げてもらい、集合場所の本丸に入りました。舗装され整備されている部分は狭く急な坂道です。
集合場所・郡山城本丸にて市の関係者や参加団体の方とお会いできました
ご案内いただいた大和郡山歴史同好会の方に「車いすの城郭研究家」ですと紹介され喜んでいます。
オストメイトの排便・排尿の姿勢に配慮した車椅子・オストメイト対応フル規格トイレでした。
2021年に再建された極楽橋に行ってみました
スロープ板を設置していただいていましたが、砂利道で車イスでの移動が困難なこと、極楽橋を渡った先にある、番屋カフェ・大手向櫓などは2022年暮れに訪れていますので、天守台行を優先しました。
極楽橋からながめる堀の両側の石垣は保存状況が良く、まだ咲き始めたばかりでしたが、桜の花も美しく眺められました。
極楽橋の上で参加団体の方に写真を撮っていただき、城址公園の活用方法など意見交換をしました。
地元の車いす(手動)ユーザー仲間と共に坂道を
天守台に向けて上げてもらいます。
道具を使って前から引き上げ、後ろからも押すという作戦、簡易電動車椅子の私もキャスター(前輪)にロープを通して引き上げてもらうのですが、車輪が動くのと引き上げるタイミングが微妙にずれるのであまり上手くいきません。
天守台も保存状態も良好に思いました。秀吉の実弟、豊臣秀長が100万石の太守として入城・整備した城跡だけに大規模です。日本史の教科書にはまず登場されませんが、秀長は豊臣政権成立を兄秀吉と共に実現させた功労者で、彼が秀吉よりも早く亡くならなず存命であれば、豊臣家臣団が「武断派」「文史派」に割れて対立することもなく、徳川家康による天下取りも実現しなかったのではないかという、歴史小説家の方もおられます。
天守台へはスロープ通路を設置していただいていましたが、予想以上の急勾配であったこと、また電動車椅子で転倒した場合、後の車いす利用者の登城に影響が出ても困りますので、天守台の石垣の見学ポイント「逆さ地蔵」に案内してもらうことにしました。
私は健常者時代福知山城(京都府)を訪れ(車椅子生活になっても2002年に天守閣への坂道を手動車イスで上ろうとしたのですが、転倒の危険があったので断念)天守閣の石垣に数多くの墓石・五輪塔を見つけておどろいた経験があります。
石垣に使われたこのような石を転用石というそうです、勝竜寺城公園内(京都府)にも発掘調査で出てきた数多くの石仏が集められていましたが、戦国乱世のなか神仏をもおそれない、城づくりが行われていたのかもしれません。古墳の上に城を築いたりという例も幾つかあります。
観光案内の方が詳しく説明して下さいました。私の車椅子の目線からは、やや上から覗き込むかたちになりましたが、地蔵様の姿が確認できました。
毎年お城まつりの初日に石垣に組み込まれた石仏・墓石などを供養するため「数珠くり法要」が営まれるとのことで、天守台の周りには数珠がめぐらせれていました。
天守台から坂を下ったさきほどの集合場所の地面に、郡山城の地図が描かれていて市の学芸員さんと思われる方が詳しく説明して下さいました。惣構えの郡山城のもとの大きさからすれば、公園として残されているのは一部分にすぎません。お城ではありませんが、「平城京跡」同様に近鉄が遺構の中心部を入りぬけています。
私は歴史的遺構も城跡も大好きな歴史マニアで、また近鉄さんには駅バリアフリーの概念が一般化する以前の1990年代初めに、車椅子用スロープ通路を数多く利用させてもらって、車椅子電車旅行を楽しんだ体験があるので、思いは複雑です。
大和郡山市の関係者の皆様には、登城のサポートやお城の案内などで大変お世話になりました。お礼申し上げます。
松永久秀の多聞城や、おなじ大和郡山市にある小泉城のことなど、教えていただきたいことは尽きなかったのですが、当初の開催予定日が雨で、翌日に順延となったため「65歳問題(介護保険への移行)」のセミナーと重なってしまい、再び近鉄で京都方面へと急ぐこととなってしまいました。
郡山城を下って近鉄郡山駅に戻ります。懐かしい踏切の道路標識ですね、当然その後には街中の車いすでの危険地帯「線路の溝を渡る踏切」が待ち構えています。
この登城体験記は2023年の状況に基づいています。
特典映像
城の石垣に使われた石仏・お地蔵様
車椅子城郭評論家・アシトド松井による勝手に解説つき
①勝竜寺公園(京都府。長岡京市)のいっかくに集められていた石仏・お地蔵様なと
お城の発掘調査で出土した石仏・五輪の塔などが集められていました。
現地案内表示をもとに解説すると
(1)もともと比叡山中にあった石仏を織田信長による比叡山焼き討ちののち
(2)山崎の戦で坂本城落城のあと、勝者・羽柴秀吉の命により築かれた大津城の
石垣に用いるため坂本城より運ばれる。
(3)大津城は関ケ原の戦いの前哨戦で落城、その後、徳川家康が入城し
毛利輝元(名目上の西軍総大将)が大阪城を引き渡すまで、戦後処理をおこなう
(4)大津城が近くの長等山から大砲を撃ち込まれたことから、移築されることになり 天守は彦根城に、石垣は新たに築かれた膳所城に転用されることになります。
(5)明治維新後、廃城となった膳所城・本丸・二の丸・三の丸跡から石仏・地蔵様が約300年ぶりに姿を現し、祠を作って祀られているそうです。
戦国乱世の時代・お城づくりの石材としか扱われなかった石仏・お地蔵さんは転用石として各地のお城をめぐられたのかもしれませんね。
お城の話になると、バリアフリーの説明はそっちのけ。だからブログの更新が
なかなか進まない
車椅子城郭評論家(車椅子電車評論家もやってます)・アシトド松井