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アシトド松井(ハンドルネームで失礼いたします)
今回は趣を変えて、福祉を維持するためには平和であることが大前提で、平和な状態を保つためにはどうすれば良いかという趣旨で文章を作ってみました。多様な意見がありそうですし、私自身も明快な回答を持っていません。答えの出ない困難なテーマかもしれません。
A 東京・お台場で不審船を見学しています、車いすで展示場にも入れました
私は2003年東京を訪れ、お台場の「船の科学館」で海上保安庁の巡視船と交戦、東シナ海で撃沈し引き上あげられた不審船を見学しています。政府はより多くの人に拉致被害の現実を知ってもらおうとされたらしく、スロープが整備されていて車いすでも展示場に入ることが出来て、内部にはロケット弾・機関銃などの多種多量な武器・船内の方の身に着けていた相手国政府の指導者の写真のバッジ、勲章などが展示されていて、緊迫する国境の海での出来事を想像する材料が豊富にありました。



工作船とも呼ばれていた船の外側を見渡してみると巡視船との銃撃で貫通した無数の穴が開いていました。鋼鈑があまりにも薄い。事件があきらかになる以前に不審船が高速で走行するため追尾しきれなかったことが報じられていましたが。スピードを出すため軽量化を重視して搭乗員の身を守るための装備を取り付けられなかった旧日本軍のゼロ戦などと同じ発想で作られたのではないかと感じてしまいました。
B 子供のころの楽しい記憶が、塗り替えられます
私の父親は太平洋戦争中に予科練という海軍の組織にいたそうです、敗色濃厚で武器を使用しての訓練は無く本土決戦のため伊勢志摩で要塞を造っていたそうで、塹壕堀の毎日、仲間内では「予科練と呼ばずにドカ練」と呼んでいたそうで、バケツ一杯のトマトが食事だったと話してくれました。戦地に行くことは無かったそうですが大阪の軍需工場で被弾、吹き飛ばされ腰に古傷を抱えることになります、それが遠因で年齢を重ねてから私の車いすを担ぎ上げようとして動けなくなり腰にボルトを入れる手術を受けることとなります。戦後は警察予備隊に入り陸上自衛隊で勤務、幼いころ父に陸曹てなあに」と聞くと「それは軍曹のことだよ」と教えてくれたので「自衛隊」は「軍隊」と言い方を変えたものであるとインプットしてしまいました。
自衛隊では蛇やトカゲを食べて生き残り任務を遂行する演習(部隊への補給が出来なくなったり・離島防衛などを想定しての訓練かも)などもあったそうで、自宅を訪れた部隊の仲間とそのような話題で盛り上がっていました。訓練で一時的ととはいえトカゲや蛇を食べで私を育てて学校に行かせてくれました。子供のころの心配事は軍服(いや間違い制服)で駐屯地に向かう父が戦争がおこったら帰ってこないのではないかということ。幸い戦争は起こらず新隊員が夜の街でトラブルを起こし身柄を引き受けるために呼び出されて帰ってこなくなる程度の平和な時代の自衛隊生活を送り停年で退官することができました。
母親が地域で暮らせなくなり、晩年は父と二人暮らしになったのですが、私が長期入院になり分かれることになるしばらく前、突然「小学生のころ日本海に海難訓練に一緒に連れていたことがあるだろう。あれは遺留品捜索だった」と話しだしたので、東京お台場での記憶と結びつき会話が続けられなくなってしまいました。自衛隊の海難訓練に隊員の子供を同行・水泳教室を行うという平和な慰安旅行を兼ねたような行事と思われ、子供のころの楽しい思い出だったのですが・・・。私が退院して自宅に戻った時にはすでに父は施設に入所、その後コロナの流行でわずかな時間しか話す機会はなくなり去ってゆきました。
内陸の駐屯地の戦車戦に対応する部隊が、何台ものトラックで長距離を移動、わざわざ日本海側で海難救助訓練を、そして子供はカムフラージュのために同行させてもらえて水泳を教えてもらえたのではと根拠の乏しい想像だけが膨らみました。私は人権や福祉を大切にした政策を優先して欲しいと願っています。しかしこの国から突然連れ去られた方の人権が守れなかったことを知ったとき「国防と福祉」を相反するものとして簡単に論じることは出来なくなってしまいました。
自衛隊ではないものの海上保安庁の巡視船(海の警察として位置づけられていると認識しています)が不審船と銃撃戦を行わなければこの問題が明らかにならず5名の方の帰国が実現することはなかったのでは、帰国できていない邦人に人権や福祉があるのだろうか?巡視船の方はPTSDに苦しめられたそうだし、指導者のバッチを身につけ水潰く屍となった相手方は母国から切り離されてしまったようですし、人権や福祉は本当壊れやすいとかんじました。国連の条約を批准しているから、憲法に規定されているから、法律で決められているからその通りに守られるほど現実世界は幸せではないように感じています。人権侵害は国内だけの問題ではなく海を渡ってやってくることもあるようです。
C ヘルパーさん母国に帰れば兵隊さん
私がお世話になっているヘルパーさんの中にミャンマーから来た若い女性がおられます。クーデターで軍が政権を掌握したのち内戦状態になり、兵が不足し女性にも徴兵制がもうけられたそうです。このような報道を承知していたので、聞きにくいこととは知りながら「帰国すれば兵役につくことになるのですか」と尋ねると「そうです」と一言、暗い表情になってしまわれた。事情を知らない別の若いヘルパーさんが国際的な常識を自慢げにかたられるので「そのような知識を得る前にミャンマー人のヘルパーさんの置かれている状況でも調べてみれば」と意地悪な質問を返してしまいました。伝えきいたところによると家族とも第三国で出会っているとのこと、帰国すれば徴兵の可能性という事柄は、自らを介護していただいている身近な若い女性に降りかかっている現実として受け止めています。
D 横浜で突然、戦災で焼け落ちた駅が車窓に
横浜市内を走る京急電車に空襲によって焼け落ちた駅か残されていています。この駅跡を通過列車の車窓から一瞬でしたが見られることが出来ました。実は職場の鉄道好きの方の案内で高架下の道路から写真撮影をしたことがあり「戦災駅」とよばれる遺構があることは知っていたのですが、そのようなことは忘れてしまって京急線のバリアフリー体験の鉄道旅行を楽しんでいたので、突然目の前にあらわれた戦時中の風景に驚いてしまいました。

そこにはベビーカーやお年寄り、そして車いすに優しい設備がなされた今日(この記事を記載している2025年)の都市部で日常的に見られる駅の姿ではなく、戦時下の形のままの焼け焦げた鉄骨が高熱につつまれた横浜の街と暮しておられた人々の状況を無言もまま語り継いでおられるように思えました。(戦災駅の撮影は1996年です)
バリアフリーや施設面での合理的配慮実現にいかに尽力しようとも、空襲をうければ灰燼に帰してしまうようです。そして「心のバリアフリー」も
E この記事を書きおえた時点での整理した私の感想
私が車いす生活になって外出し始めた1990年代のはじめには、戦地に行かれたり、障害を持って生まれ戦時下での困難な生活を体験された方と接する機会がありました。障害を持って戦争を迎えた方たちは当時の理不尽な扱いを涙ながらに語り、戦地に行かれた方は思い出したくもない体験だったようで多くを語られませんでした。
人権や福祉は壊れやすいもので常に守り少しずつ育てゆかなけれなりませんが、それ以前の生存権すら侵され一般の人たちにゆとりが亡くなった時に積み重ねられた人権・福祉も無くなってしまうのだと感じています。
私たちの国はいろいろな批判を受けながらも平和(戦争をしていないという意味で使用しています)な時代を長く続けられることができ、障害をふくめた多様性を享受できるかもという夢をみられるレベルまで達したのかもしれません。平和も人権や福祉と同じように壊れやすく不断の努力をしても失われてしまうかもしれません。話し合い理解しあって平和な世界を創る活動は素晴らしく、敬意をはらうべきことですが、AとBで記載したような体験から力を持たない国家は外交交渉すらできないのではとも思っています。
戦争を知らない者のとりとめのない感想文になってしまいましたが。この記事を読んでいただいている多く方が望んでいると信じたいい社会実現のためには平和な状態を続けていけることが大前提でそれを維持することがいかに困難なことであるかをわずかな時間でも感じ取っていただければ幸いです。
思考停止にだけは陥らないでくださいね。
(ご注意ください)
掲載させていただいた写真他の内容は当時の状況に基づいています。
アシトド松井(ハンドルネームで失礼いたします)