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車いす城郭評論家・アシトド松井
最初に車椅子のお城めぐりにとって残念な報告を、
安土城のメインストリート「大手道」は2013年に訪れた時には近くまで行くことが出来、幅の広い石段と左右の石垣を眺めることが出来たのですが、2024年に訪れたところ入山口が設けられおり、車いす利用者は近づけなくなってしまいました。
ビフォー(2013年)
アフター(2024年)
織田信長は関所を廃止しようとしたのに、新たな関所ができてたよ!
信長公も民を安土城内に入れる際、入場料を申し受けたらしいよ。
入山料・拝観料を納めますでぇ少しだけでも見えるようにご慈悲を😢
気を取り直して
現地案内図をおかりして安土城跡周辺の変化(明治から~平成にかけて)
現地案内板をおかりして 一部加工して紹介
写真左は明治26年の地図
写真右は案内板の記述がら「平成」になってからの地図ではないかと推測しています。
干拓事業によって大中の湖などの琵琶湖につながる内湖が埋め立てられました。安土山に登られた歴史小説家・司馬遼太郎先生は(開発によって)「安土城が落城した」と述べられたとうかがっております。
天下統一のため琵琶湖の周囲に4つの城を構えた織田信長とその家臣
解説 車いす城郭評論家
アシトド松井
いかなる肩書にも「車いす」をつければ第一人者になったような気分でいるようだな!
当時、船による海上運送は物流・兵員の移動にとって重要なものであったと考えられられます。安土城を中心に4つの城を湖上で結ぶ交通ネットワークを作り、京都・大阪・北陸などへの湖上交通利権をおさえたのではないではないでしようか。
びわ湖を囲む信長家臣のお城と光秀・信澄そして秀吉の動向
🟧明智光秀の坂本城
比叡山焼き討ちののち、延暦寺の門前・坂本に明智光秀によって築かれます。城跡にゆくには、交通量の多い道路を移動しなければならず、歩道は無くすぐ横はカードレールという狭い範囲を自動車にふつけられる恐怖を感じながら車椅子を進めました。
なんであんたは.そこまでして、車椅子でお城に行くの!?
2024年石垣が新たに発見されたの情報が入ってきました。明智光秀の丹波の拠点「福知山城」に多く使われていた.転用石をみることが出来るのか、早く行ってみたいョ~
私は子供のころ光秀は神仏を尊重していて「比叡山焼き討ち」などには反対の立場であったのではないか、と思っていたのですが、訪れた光秀ゆかりの「福知山城」「勝龍寺城」そして膳所城跡の現地案内板により、祠・五輪塔・お地蔵様が数多く石垣に用いられいるのでは.と感じ。光秀にも信仰よりも戦国乱世を生き残るための優先事項があったのではと思うようになりました。
🟧織田信澄(津田信澄)の大溝城
「津田」を名乗っていたともされていますが、2013年訪問時の現地案内板の記載に合わせて「織田信澄」と紹介します。
織田信澄は信長の甥で父が謀叛を企てたのにかかわらず、織田家臣団のなかで重要な地位をしめます、明智光秀の娘婿でもあり、城の縄張りは光秀が行ったとされています。
🟧羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の長浜城
城跡の豊公園に天守閣を模した「長浜城歴史博物館」が造られています。浅井長政の小谷城攻めに功績があった秀吉が最初に城持ち大名となったところ。苦労人は周囲の気配りも抜群で織田家の重臣「丹羽長秀」「柴田勝家」から一字づつ賜り「羽柴」と改名したり、信長の四男「於次丸」を跡取りにむかえたりします。
こちらのブログもご覧くださいね☞長浜城・長浜鉄道スクエア・黒壁スクエア
写真を掲載して分かりやすくされているのでしょうけど、
「こんな城跡も車椅子でいったぞ」という自慢話のように感じるのはなぜなんでしょうか?
🟢車椅子で安土城周辺をめぐります
JR安土駅が旅の起点になります。
北口側に信長公の像と観光案内所があります。
🟢観光案内所に掲げられていた地図を基に
今回訪れた場所を白抜きの赤字で記載しています
🟢安土山(安土城跡)に向かいます
入山口手前の駐車場手前にガイダンス施設があり、内部に車いすとシャワータイプのオストメイト簡易対応トイレがありました。
安土山入山口の手前にも段差があり、何度か試してみるものの料金支払い窓口にもたどり着けず。大手道の石段・石垣を覗き見ることはかないませんでした。
駐車場横の石垣が保存状態も良く、安土城跡を最も感じられた場所になりました。
🟢安土山を後にして博物館・資料館に向かいます。
JR安土駅周辺の住宅街を通り過ぎると上写真のような道路を通り、安土城祉・考古博物館・城郭資料館をめぐります。通行量は少なく、農地や水路に囲まれて、車椅子が脱輪・転落したら君は発見救出されることが出未るかな。
🔵安土城考古博物館
安土城を築城当時に復元されようとする様子や、織田軍が用いた従来の常識を覆す「長やり槍」の重さが体験出未る展示もありました。
🔵安土城天主信長の舘
スペインセビリア万博の日本館メイン展示品として天王最上階の二層部分を絢爛豪華に復元しています。
JR安土駅南側に戻ってきました。駅前のロータリーすぐ横に安土城郭資料館があります。小さな資料館ながらも安土城そしてヨーロッパとの交流を伝える展示など、見所たくさんです。
🟢安土城郭資料館
🔵安土城郭資料館の展示
2つに別れて内部の様子も詳細に造られている安土城の模型
安土城と隣接する観音寺城(信長が足利義昭を奉じて上洛する際・落城した六角承禎の巨大な山城)との位置関係・標高差を示したジォラマが見応えのあるものでした。信長は観音寺城跡を詰めの城として利用しようとしたのでは、という書物を読んだことがあるのですが、このシ”オラマを見せてもらってそのような考をもたれる方がおられるのも無理のないことだと感じました。
🟪2023年本能寺跡を訪れました
現在の本能寺は焼失後・地下鉄京都市役所前駅近く寺町京極通の商店街を入ったすぐのところに再建されたものです。信長が襲撃された本能寺跡は街中に石碑が立っているだけなのですが、訪れた時には大きなカメラを持った歴史ファンや小さなお子さんにせがまれてお母さんが付添に来られていたり、「戦国の風雲児」は人気抜群のようです。
安土城から京の都に入った信長は、最も信頼していた家臣の1人、明智光秀に滞在していた本能寺で襲撃され、炎の中に消えて行きます。
本能寺の変は琵琶湖の周囲の4城主の運命すべてを変えてしまいます。
①安土城主・織田信長
燃え盛る本能寺に消える。亡骸がみつからず首をさらされなかったので、秀吉が生存しているとの情報・手紙を出し(フェイクニュース)、山崎の戦いを有利に進めたとの説があるそうです。
②大溝城主・織田信澄(津田信澄)
四国の長宗我部氏を追討するため大坂城に滞在、織田軍団が集結するなか「本能寺の変」の報がもたらされる。光秀との関係を疑われ、織田信孝(信長の三男)・丹羽長秀らに大坂城内で攻められ、自害に追い込まれます。
③坂本城主・明智光秀
本能寺の変の後、安土入城など近江を平定を行った後、宮中に参内していることから、朝廷から新たな天下人(当時の天下は京都と周辺地域)と認めらたのかも知れません。前出の歴史小説家の先生は「朝廷は常に勝者に微笑む」と書いておられたようです。摂津の与力大名などを見方に付けることに失敗。中国大返しを成し遂げた羽柴秀吉らの大軍に山崎で敗れ、坂本城に落ちのびる途中に名も無き民に討たれてしまいます。
④長浜城主・羽柴秀吉
毛利方の清水宗治が守る高松城水攻めの最中に本能寺の変を知ることに。素早く毛利氏と和睦、姫路城まで駈け戻り、大坂そして山崎の戦いへ、秀吉の直属軍には養子で信長の四男・秀勝(於次丸・秀吉には秀勝という名の養子が複数おられるので注意が必要・滋賀の郷史研究家には、長浜城主時代初期の秀吉には.正室以外の女性との間の出来た男児に「秀勝」と名付けたものの幼くしてなくなっているのではという本を残されている方もおられました)がいたため、重要な旗印の1人となったのではと考えています。
清須会議~賤ケ岳の戦い~小牧・長久手の戦いをへて信長の継承者そして天下人へと登り詰めます。
🟪本能寺の変を調べてみて私の感想
①常に多数の軍勢を集めていた信長の油断。
信長の素晴らしいところは、少数の軍勢で今川義元を打ち取った「桶狭間の戦い」を成功体験としなかったことがあげられると考えます。その後は、自らの軍勢が相手を上回る時期が来るまでは、戦をしかけなかったと思われるからです。その信長がわずかな供回りで京に入ったのは天下(畿内)はすでに我がものであると戦国武将らしからぬ油断・すきをみせたのではないでしょうか。
②嫡男・信忠に「逃げる大切さ」を教えていなかったのでは。
光秀の謀叛を知った、信長嫡男・織田家当主の織田信忠は妙覚寺から二条城にうつり、父の後を追うように自害してしまいます。父信長は浅井長政の寝返りに合い絶対絶命の危機をむかえた金ヶ崎(福井県)から躊躇することなく、京へ逃げ戻っています。幼児であった信忠の嫡男・三法師(秀信)が前田玄似に抱かれて混乱する京都からの脱出に成功していますので、信忠が姿を換え単騎でも落ち延びる可能性を試みるという選択肢もとれたのではないでしょうか。
宿敵・武田勝頼を滅ぼした天目山の戦いの総大将を任され、大軍を率いる「帝王学」は学んだものの「逃げる大切さ」を信長から学ばなかったのではないか、と感じられました。
ずいぶん長い記事になりましたが、お付き合い頂きありがとうございました。
車椅子での史跡へのアクセス方法と歴史解説を加えた読み物を作ってみたかったのて“今回試みてみました。
記載内容は「現地案内板」や過去に読んだ「歴史読み物」などをもとにしたいわゆる独自研究です。古文書や考古学上の資料を精査したわけでもなく、通説とされているものも、新たな発見があれば覆ります。
このような車椅子の城めぐりの楽しみ方もあるのだなぁ程度にお楽しみいただければ幸いです。
車いす城郭評論家・アシトド松井
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