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車椅子電車評論家・アシトド松井
2023年初春、簡易電動車椅子利用者単独で大阪城公園を散策ののち、大阪メトロ谷町線~阪急京都線と乗り継ぎ、阪急長岡天神駅で下車。勝龍寺城公園を散策ののちJR長岡京駅からJR京都線の快速電車に乗車、京都方面へと向かいました。
ここからの車椅子旅行記は2023年の状況に基づいています。
最初に現地案内図をおかりして、今回の「車椅子で行く勝龍寺城」の旅で利用した阪急・JRの駅と勝龍寺城公園の位置関係をご理解いただければと思います。
地図の上が大阪方向・下が京都方向です。
2023年時点の話ですが、地図でもお分かりいただけると思いますが、阪急長岡天神駅からのJR長岡京駅間の道路は最初は狭く(歩道と車道の区別なし)途中から拡張工事がなされたらいく、広く整備されていました。
車いすの城マニアをのせた電車が、阪急長岡天神駅に着きました
阪急長岡天神駅はエレベーター完備、自由通路が東西をむすんでいます。降車時に渡し板設置サービスを受けました。改札口内に車椅子・オストメイト簡易対応トイレがありました。大阪城めぐりで疲れていたので路面バスでの移動を考え駅員さんに尋ねたところ、バス停までは徒歩5分ほどの距離があるそうで、車椅子対応バスの運行状況も分からなかったので、車いすでJR長岡京駅そして勝龍寺城公園に向かうことにしました。
阪急長岡天神駅からJR長岡天神駅の道路は、さいしょは歩道と車道の区別なし
後ろから追い抜いてくる自動車の運転手さんがスマホながら運転をやっておられないことや、盗んだバイクで走りだすしていないことをただ祈るばかり。
(この歌知ってる?)
そのうち拡張工事が行われているエリアにたどり着いて
JR長岡京駅が見えてきました、歩道も広く横断歩道からの段差も解消されていました。
結果論になりますが今回、長岡京市をめぐった範囲では、オストメイトの排便・排尿時の姿勢に配慮したトイレ(アシトドのブログ・HPではオストメイト対応フル規格トイレという名称で紹介しています)を見つけることができず、JR長岡京駅前の大型商業施設(写真左側)を利用・確認していなかったことを残念に思っています。
車いすでJR長岡京駅に着きました
改札口前の自由通路をとおって勝龍寺城公園に向かうのですが、ここでJR長岡京駅のバリアフリー状況をご案内しますね。
JR長岡京駅の2階改札口内にホームへ降りるエレベーター、車椅子・オストメイト簡易対応トイレ(パウチ内の汚物を流す水道が付いている)がありました。
2階改札口まではエレベーターで結ばれた東西自由通路があります。
自由通路を使って東口側へ、勝龍寺城公園をめざして車いすを進めます
以前は東口側に行くエレベーターがなく上写真右側のスロープ状の地下通路を利用していました。勝龍寺城公園までの道路に「ガラシャ通り」という愛称名がつけられているそうです。
「明智光秀最後の城/娘・細川ガラシャ輿入れの城」の横断幕がありました。
でもまもなく「ガラシャ通り」も狭くなって車道と歩道の区別もなくなり(下写真の右側参照)
途中に細川藤孝(ガラシャの夫、細川忠興の父親)により勝龍寺城の一部として取り込まれた、神足城跡があります。
1999年(平成11年)にも車イスで神足城跡を訪れたことがあるのですが、すっかり整備されていて雰囲気が変わっていました。
これから訪れる勝龍寺城の整備される前の城跡の写真を見たことがあるのですが、撮影者のかたは公園として整備されたことで古城の雰囲気がなくなったとお嘆きのようでした。
お城好きは本当に奥が深い、私も車椅子生活になってもお城好きがなおらず。まじかで見たいという欲求と、手を加えずにそのまま残してほしいという相反する思いが交錯しています。
勝龍寺城公園に着きました
勝龍寺城公園にたどり着いたものの段差があり歩道に上がることが出来ず、安全確保のためおろおろすることに。
帰宅途中の高校生に写真をお願いすると「全然問題ないです」という返事をいただき櫓をバックに撮影してもらいました。
先ほどご紹介した「お嘆き」の方が古城に天守閣が出来たと表現されていた勝龍寺城公園管理棟がわに向かいます。
管理棟前に写っている城門からは階段があり車椅子では入れないのですが、別にスロープ状の通路があります。
通りかかったカップルの方に写真を撮ってもらいました。左側の通路から城内(公園内)に入ることが出来ました。
訪れたのは新型コロナウイルス流行の時期で、管理棟に入るスロープ状の入り口側は閉ざされていたのですが、車椅子利用者に配慮されてなのかカギはかかっておらず、上肢に障害のない私は手で開けて中に入ることが出来ました。
勝龍寺城公園管理棟内1階に休憩所が設けられており、車椅子対応トイレがありました。(扉が硬くてなかなか開けられませんでした、障害者の旅行は何が起こるか分かりませんので見つけた多目的トイレでこまめに用を足しましょう。)
2階には展示室がありエレベーターで上がることができます。
細川ガラシャ 諱は「玉」は、1600年会津征伐のため江戸に向かった徳川家康・夫の忠興ら(東軍)と入れ替わるように大阪に入った石田三成を首謀者とした奉行方(西軍)が、人質として大阪城に入ることを迫るもこれを拒否。クリスチャンであったため自害できず、家臣・小笠原小斎が長槍で突きこの世を去ります。その後東西両軍の対立は「関ケ原の戦い」へと進みます。
ちりぬべき 時しりてこそ
世の中の
花も花なれ 人も人なれ
細川ガラシャの辞世の歌
私は2013年にも勝龍寺城公園管理棟2階の展示室を訪れているのですが、その時説明していただいたボランティアガイドの方から「小笠原小斎の子孫」という方が見学にこられた、という話を伺い人の歴史は続いているんだと感じました。
車イスで勝龍寺城公園をめぐります。先ほどの大阪城公園に比べれば小さな城郭公園です。細川忠興・ガラシャの像がありました。
車椅子利用者本人が自動車を運転して城めぐりをされる方(そんなやつおるんかい!)のために公園に隣接した駐車場にも行ってみましたが、車いす利用者への配慮したドアを全開にできる幅の広いスペースは見当たりませんでした。
勝龍寺城公園を後に「ガラシャ通り」を戻りJR長岡京駅に向かいます
JR長岡京駅から京都方面への快速電車に乗ります。渡し板設置サービスを受けました。車椅子乗客をサポートしていただいた駅員の皆さん有難うございました。
2回にわけて画面上ですがご一緒いただいたJR~大阪メトロ~阪急電車~再びJRと乗り継いでの、車いすで行く「大阪城」「勝龍寺城」2城めぐりの旅はこれで終わります。ご覧いただきありがとうございました。
特典画像 明智光秀ゆかりの地
というよりも単に車椅子でこんなところも行ったよという自慢するための写真です。
明智光秀の娘玉(洗礼してガラシャ)が盟友・細川藤孝の嫡子忠興に輿入れした勝竜寺城ですが、歴史のめぐり合わせなのか光秀の最後の合戦「山崎の戦い」の拠点となります。本能寺の変の後、中国大返しで戻ってきた羽柴秀吉そして大阪城内で光秀の娘婿織田信澄を討った丹羽長秀・織田信孝(信長の三男)らの連合軍との山崎の戦いに敗れた光秀は勝竜寺城を抜け出し、居城近江坂本城にむかうのですが・・・
写真説明
明智光秀の娘婿津田信澄(現地案内板には織田信澄と表示されていました)のお城。縄張りは光秀が行ったといわれます。信澄は信長の甥にあたりますが、秀吉が信長の四男秀勝(於次丸)を跡継ぎに迎えていたことを考えると主君との関係でも不利な立場にあったように思います。本能寺の変の直後、信澄は四国の長宗我部討伐のため織田軍が集結していた大阪城内(秀吉が天下人として拡張する以前に信長が使った城らしい)で、光秀との関係を疑われて攻められ自刃してしまいます。
実は明智光秀ゆかりの地をめぐっるつもりではなく、2004年名古屋に住む電動車椅子の旅行仲間とローカル線の旅を計画。明知鉄道の終着駅「明智駅」で降ろしてもらったところ駅正面に「明智光秀公ゆかりの地」との案内(写真が残ってないのですがたぶん石碑だったと思う)がありました。若いころの光秀については謎の部分が多く、生誕の地についても幾つかの説があるそうです。
ずいぶん宅地化が進んでしまいましたが伏見区の小栗栖の竹藪が明智光秀終焉の地とされています。近くに明智光秀之塚(調べたところ胴体を埋めたところらしい)があるというので行ってみました。同行介助者は得られず、また訪れている方も見当たらなかったので自分で撮影しました。
地元案内板や歴史小説などから得た知識をもとに記載しました。歴史的文献などは調べていません。信長の大阪城など分からないところも多いのですが、明智光秀に関してこのような見方もあるのだという程度に読んでいただければ幸いです。
前半の「車椅子で行く大阪城」とはずいぶん異なるバリアフリー情報の少ないブログになりましたが、これに懲りずにオストメイトや車いすでの旅を画面上ではございますが、ご一緒いただければと思います。
バリアフリー情報以外もいっぱい調べてブログの更新がどんどん遅くなる
車椅子電車評論家・アシトド松井
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